サムの備忘録

趣味ネタ、時々社会的なテーマ。IT関連のテーマはもう1つのブログに投稿してます。

ドキシング活動の問題点

特定の思想を持つ相手の個人情報をネットに晒す、

ドキシングと呼ばれる活動についての記事を読んだ。

 

記事では、ネオナチやKKKなどの過激派をターゲットとする、

ダリル・ラモント・ジェンキンスという人物が例に挙がっていた。

 

wired.jp

記事では長々と説明や考察が続いていたが、

結局のところ、正義を振りかざせば何でも許されると勘違いしているだけである。

「ドキシングが嫌なら、差別主義者を抑え込んでおく別の新しい方法を

ぜひ探してください」という彼自身の発言も、ただの言い逃れだとしか思えない。

 

記事のような事例は、日本国内でもネット上を中心によく見かける。

共通しているのは、自身の正義に心酔している点だ。

 

彼らのように、自身の正義に心酔する人間は、自身の内面を疑わない。

内面を疑わないのだから、当然、自身の行動にも疑いの目を向けられない。

 

このような疑いの欠如が、悪事さえも正当な行為と錯覚させ、

恐るべき確信犯をこの世に生み落としてしまうのだ。

 

戦地に赴いた十字軍の兵士が、敵地で平然と罪深い行為をとることと、

まったくもって心理状況は同様だということなのである。

 

また、彼らのような人物は、疑いを捨てると同時に、

一切の責任さえ放棄している場合が多いのではないだろうか。

 

何故かと言えば、責任は自省を促すものであり、

自省に疑いの視点は不可欠なものだからである。

 

責任というものを意識すれば、自ずとリスクの存在も意識せざるを得ない。

また、リスクを意識することと、自身を疑うことは不可分だ。

これが意味するのは、疑うことなくして責任は持てないということなのだ。

 

であるからして、疑いと責任とは同時に放棄されるのである。

正しいことをしているのだから、責任を取ることまで考えない。

そのような態度を示してしまっているのである。

 

無論、差別主義者の言動は言語道断だ。

しかし、たとえ目の前にいるのが悪人だったとしても、

破廉恥な行為が許される理由とならないことを、忘れてはならないのだ。