ドキシング活動の問題点
特定の思想を持つ相手の個人情報をネットに晒す、
ドキシングと呼ばれる活動についての記事を読んだ。
記事では、ネオナチやKKKなどの過激派をターゲットとする、
ダリル・ラモント・ジェンキンスという人物が例に挙がっていた。
記事では長々と説明や考察が続いていたが、
結局のところ、正義を振りかざせば何でも許されると勘違いしているだけである。
「ドキシングが嫌なら、差別主義者を抑え込んでおく別の新しい方法を
ぜひ探してください」という彼自身の発言も、ただの言い逃れだとしか思えない。
記事のような事例は、日本国内でもネット上を中心によく見かける。
共通しているのは、自身の正義に心酔している点だ。
彼らのように、自身の正義に心酔する人間は、自身の内面を疑わない。
内面を疑わないのだから、当然、自身の行動にも疑いの目を向けられない。
このような疑いの欠如が、悪事さえも正当な行為と錯覚させ、
恐るべき確信犯をこの世に生み落としてしまうのだ。
戦地に赴いた十字軍の兵士が、敵地で平然と罪深い行為をとることと、
まったくもって心理状況は同様だということなのである。
また、彼らのような人物は、疑いを捨てると同時に、
一切の責任さえ放棄している場合が多いのではないだろうか。
何故かと言えば、責任は自省を促すものであり、
自省に疑いの視点は不可欠なものだからである。
責任というものを意識すれば、自ずとリスクの存在も意識せざるを得ない。
また、リスクを意識することと、自身を疑うことは不可分だ。
これが意味するのは、疑うことなくして責任は持てないということなのだ。
であるからして、疑いと責任とは同時に放棄されるのである。
正しいことをしているのだから、責任を取ることまで考えない。
そのような態度を示してしまっているのである。
無論、差別主義者の言動は言語道断だ。
しかし、たとえ目の前にいるのが悪人だったとしても、
破廉恥な行為が許される理由とならないことを、忘れてはならないのだ。